sexta-feira, 9 de dezembro de 2011

伯宮幸明 ロハスピ・コラム

http://ameblo.jp/column-takamiya/entry-11098279850.html



アズワンコミュニティ鈴鹿を訪問して

テーマ:ブログ
2011-12-05 09:48:10
どしゃぶりの中、鈴鹿山脈の山道を走る。土山から亀山に抜ける国道1号線はカーブが多い。といっても道幅が十分あるので、熊野から土山に抜ける道に比べたら全然走りやすい。

日野町は三重県との県境に位置し、鈴鹿山脈を越えると反対側は三重県だ。綿向山や僕が竹を切っている水無山も鈴鹿山脈に属し、鈴鹿山脈というのは僕にとって庭のような存在になりつつある。

そう、そして、今日は鈴鹿に向かっている。鈴鹿サーキットに行くためではない。アズワンコミュニティ鈴鹿を訪問するためだ。

アズワンコミュニティについてはEDEの鎌田さんからチラッと聞いたぐらいで、詳しいことはほとんど知らなかった。

今回、ジュレー・ラダックがアズワンコミュニティ訪問ツアーを組み、スカルマ・ギュルメットさんも来るということで、思い切って参加してみることにした。スカルマさんとは2006年からの知り合いで、地球祭に出演してもらって以来、年に一回ぐらいは必ずどこかで出会っていた。最近では『幸せの経済学』の試写会でインタビューさせてもらった。

『幸せの経済学』試写会動画レポート

僕らはまず鈴鹿カルチャーステーションという場所に集合した。ここはカフェにもなっていて、講演会やコンサートなどのイベントも定期的に開催され、アズワンコミュニティのメンバーや地域の人たちが集える場所となっている。


伯宮幸明 ロハスピ・コラム 
鈴鹿カルチャーステーション

ツアーの参加者は東京、名古屋、島根、そして滋賀から集まり、まずみなで自己紹介をした。アズワンのメンバーも何人か同席した。

鈴鹿カルチャーステーションの代表理事を務める坂井和貴さんがコミュニティの説明をした。アズワンカンパニー、アズワンコミュニティ、鈴鹿カルチャーステーション、サイエンズスクール鈴鹿、サイエンズ研究所といろいろ出てきて、正直のところどういう場所なのかよくわからなかった。会社なのか、コミュニティなのか、学校なのか。

部分、部分はわかるのだが、全体像が掴めない。で、結局のところ、ここは何なのだ。

アズワンカンパニーというのは会社であり、いくつかの事業を展開させている。お弁当屋さん、農場、工務店、不動産屋、人材派遣業など。

その後、カルチャーステーションを後にして、街のはたけ公園という所に行った。

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この日は雨で地面が濡れていたので長靴にはき替える。ここは地元のショッピングセンターの協力で1.5ヘクタールの畑を借りた場所。市民農園、学校の体験学習、シニアの活動の場などに利用されているそうだ。

こことは別に出荷用のアズワンファームという農場がある。

続いてアズワンカンパニーの事業のひとつである「おふくろさん弁当」を訪問する。アズワンファームでとれた野菜を使った弁当屋で、地域の人に手作り弁当を販売している。学校から注文が来ることもあるという。


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こうした職場にはコミュニティのメンバーも勤務していれば、そうでない人もいるという。従ってアズワンカンパニー・イコール・アズワンコミュニティではないようだ。実際、コミュニティのメンバーといっても、誰がメンバーで誰がメンバーでないかもはっきりしていないようで、自分がメンバーかどうかわからない人もいる。それだけ境界線がはっきりしていないということで、いろいろな人が出入りしている。

職場にはルールのようなものがないという。遅れてきても誰も咎められない。みなが仲良く、心地よい雰囲気で働けることを目指しているようで、上下関係も存在しないという。何でも話し合える空間にしている。給料も各自異なり、会社と話し合って決めるのだそうだ。休日もそう。週休3日の人もいれば2日の人もいれば1日の人もいる。それぞれの希望や必要に応じて決めるそうだ。もちろん会社の必要もあるので、双方の希望や条件を出し合い、話し合ってお互いにとってベストな状況を選ぶのだという。

その後、お肉とやおやさんという店に行った。


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ここでは鈴鹿山麓産の豚肉や野菜などが売られている。街のはたけ公園でシニアのメンバーがつくっている野菜も売られている。


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そして、ここではリンカという地域通貨を使用することも可能だ。


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これがリンカのカード。全額リンカで買えるものもある。街のはたけ公園でシニアがつくっている野菜はすべて全額リンカでも買えるようだ。

その後、鈴鹿カルチャーステーションに戻り、サイエンズスクール鈴鹿とサイエンズ研究所の説明を聞いた。

サイエンズスクールというのは人としての成長をサポートする教育機関で、様々なセミナーを開講している。マイライフセミナー、内観コース、自分を知るためのコース、自分を見るためのコース、人生を知るためのコース、社会を知るためのコースなど。

コミュニティのメンバーの多くがこれらのセミナーを受けていて、ここで共有される価値観、考え方、姿勢がコミュニティをつなぎとめるグルー(接着剤)の役割を果たしているのだろう。

サイエンズ研究所というのは、そうした事柄を研究する場所のようだ。スクールで開講するセミナーも、それ自体が完成版ということではなく、参加者のフィードバックを基に研究し、改善すべきところは改善していくという。コミュニティの生活から見えてくること、アズワンカンパニーという職場で見えてくることも研究材料になり、そこでも改善が行われていくそうだ。つまり研究所というのは、コミュニティを停滞させることなく、常に進化し続ける場にするために重要な役割を果たしているようだ。

宿泊先はセミナーハウスだった。サイエンズスクールが提供するセミナーの多くが泊りこみの合宿形式で、ここで開催されるらしい。宿泊施設にもなっている。


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夕食の風景

夜はツアー参加者とコミュニティのメンバーで集まり、懇親会を開いた。


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懇親会ではアズワンコミュニティについてやラダックについての情報交換が行われた。参加したコミュニティのメンバーに女性が何人かいたことも印象的だった。

コミュニティのメンバーはだいたい100人ぐらいいるそうだが、メンバーと非メンバーの境界線がはっきりしておらず、正確な人数は誰もわからないという。共同生活をしているわけではなく、世帯はそれぞれ別々だ。ただ、みな近所に住んでいる。ここは鈴鹿市の中心だが、ほとんどが歩いて行き来できるぐらいの界隈に住んでいるという。従って同じ屋根の下でこそ生活をしていないものの、行き来は頻繁にあり、みな家族のような付き合いだという。大多数の人たちがアズワンカンパニーに所属し、共に仕事をしているので昼間接する時間も長い。カンパニーが複数の会社に分かれているので、接するといっても全員が顔を合わせているわけではないが。

ミーティングも、個々のミーティングはあっても、全体ミーティングのようなものはないそうだ。

そして、メンバーと自覚していない人たちの中にも、アズワンカンパニーのパート社員や、サイエンズスクールの受講生、鈴鹿カルチャーステーションが提供する講演会やコンサート等の常連客、街のはたけ公園の利用者等、何らかの形でコミュニティに関わっている人たちもたくさんいて、そうした周辺の人たちも含めると数はさらに多くなる。

ここがこのコミュニティの全体像をわかりにくくしている要因かもしれない。境界線がはっきりしていないので、どこからどこまでが何でどこからどこまでが何なのかが見えにくいのだ。

結局、僕は訪問中は最後までその辺がよくわからなかったのだが、後になってわかってきて、また、わかりにくいこと自体がコミュニティの良さであることもわかった。

翌日の午前中は植樹体験をした。里山を再生するプロジェクトで、広葉樹が増えるようにコナラやクヌギなどを植林しているのだ。炭焼きも復活させようとしている。これは僕がまさに今熊野でやりたいと思っていることだ。


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ここにはこうした様々なプロジェクトがある。これは一種のサークル活動のように、やりたい人が手を挙げて始めていることだという。街のはたけ公園での活動もそうだが、参加者はコミュニティのメンバーに限定されていない。

その後はお茶会を体験した。


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そしてコミュニティ食堂にて昼食。


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コミュニティのメンバーやそれ以外の人たちも入れる家庭レストランだ。

これで、「普段着で探訪DAY」のツアーは終了。

午後は、鈴鹿カルチャーステーションのイベントとして「ラダックmeetsスズカ」という写真トークショー&ワールドカフェが行われた。プレゼンをしたのがスカルマさんとジュレー・ラダックのメンバー。


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伯宮幸明 ロハスピ・コラム 

ラダックでのコミュニティのあり方とここ鈴鹿で行われている取り組みを見ながら「未来へと続いていくコミュニティの姿」について話し合う。

ラダックとはヘレナ・ホーバーグ・ホッジさんの『ラダック―懐かしい未来』にも登場する北インドにある地域のことで、持続可能で相互扶助的な地域社会が存在していた。

詳しくはジュレー・ラダックのサイトをhttp://julayladakh.org/ 

ここまでがツアーだ。

アズワンコミュニティというのは僕の目にどう映ったのだろうか。

ひとつは今までにない形のコミュニティであるということ。木の花ファミリーのようなコミュニティとも違うし、僕が移住者ネットワークと呼んでいる鴨川や小川町のような場所とも違う。トランジション・タウンとも違う。ひとつの枠組みに収められない不思議な場所だ。

強いて定義付けするなら、エコビレッジか、共通の目的を持った生活集団という意味のインテンショナル・コミュニティと言えるのだろうか。

ここでも多くのことが自然発生的に起きてきたが、共通の目的を持って何人かが集まり、意図的にコミュニティづくりをしたという点では、やはりインテンショナル・コミュニティだと思う。鴨川や小川町の場合、意図する人が誰もいなかったのだから。

では共通の目的とは何なのか。「誰もが家族のように親しく安心して暮らせる社会を作ろう」ということのようだ。

そして、その方法論をサイエンズ研究所で研究し、できあがったノウハウをサイエンズスクールで共有しているのだろう。

だから、やはり核になっているのがサイエンズというもので、そのあり方を実社会において実践する場がアズワンコミュニティであったり、アズワンカンパニーだったりするのだろう。

となると、気になるのが、サイエンズの中身なのだが、僕もそれについてはまだよくわからない。スピリチュアルなものではなさそうだ。誰かが神がかって得たビジョンに基づいて生まれたわけではない。彼らは科学という言葉を使っている。生き方、社会のあり方、人との関わり方を科学するということなのだろうか。

僕の感覚では、心理学的な要素(サイコセラピー、自己啓発セミナー等で扱われる手法)が大きく影響しているように見える。ただ、それも何か固定された体系に基づくというより、白紙の状態で人間や社会を観察し研究する、オリジナルのもののようだ。

ここの素晴らしい点は、自由意志というものを尊重し、特定の思想体系を上から押し付けるということがない点だ。科学と呼んでいるのも、常に観察、実験を繰り返しながら研究し、改善の余地を残そうとしているからだろう。

そして、その姿勢があらゆる所で表れている。ひとつはサイエンズのセミナーを受けることがコミュニティに入る条件になっていないことだ。フィンドホーンでさえも(さえもというのはフィンドホーンは自由意志が大きく尊重されている場所だから)体験週間プログラムを受けることが条件になっているのに、ここではそうでない。

自由に意見を言い合える空間をつくりあげていて、どんな意見でも尊重されるという。それが咎められたり、反対されたりすることはないという。

そのために上下関係を取り払い、誰もが対等な立場で意見を言い合える雰囲気ができている。

また、ここにはリーダーがいない。アズワンカンパニーには代表取締役がいるが、その人がリーダーというわけでもないという。ツアーの指揮を取った坂井さんがリーダーというわけでもないらしい。(実際、坂井さんが指揮を取っていたのかもどうかわからないほど入れ替わり立ち替わり別の人がガイドを務めた)

もうひとつは職場というものが提供され、コミュニティのメンバーが外に仕事に出て現金収入を得る必要がないこと。そしてその職場が心地よい労働環境を提供していること。利益を上げることや会社を維持することよりも何よりも、働く人が心地よい状態で働けるということを優先している。ほとんどの職場が(エコ的な商品やサービスを提供しているような所でも)、理想はそうであっても、二つを天秤にかけなければならなくなった時、前者を優先せざるを得ないというのが現状だと思う。しかし、ここでは、後者が優先できないのなら事業をやめることまで覚悟しているのだ。

また、アズワンコミュニティ、アズワンカンパニー、サイエンス研究所、サイエンズスクール鈴鹿、鈴鹿カルチャーステーションなどが相互につながっていることが、ホリスティックな展開を可能にしていること。例えば、サイエンズスクールのセミナーで学んだことを実践する場があり、そして実践の場で気づいたことがさらにセミナー作りにも反映させられている。

では、ここには問題点はないのだろうか。強いて挙げるのなら循環型のライフスタイルが徹底されているわけではないということだろうか。都市型のコミュニティであることや、自給自足や小さな農ということには大きく意識が向けられていないように見えた。(もっとも、多様なニーズに応えるためには都市型も必要なので、まして鈴鹿のような小都市での試みなら、十分ありだとも思っている)

同時にそれがここの良さでもある。循環型のライフスタイルが徹底されるということは、そうしたことが上から押し付けられやすくなってしまうことにもなる。自由意志を尊重するということにコミットした場合、メンバーが望むのであれば、そうでないライフスタイルを選択する自由も認めることになる。

これは非常に重要なポイントで、自由意志の抑圧は多くの理想郷づくりが陥りやすいことだ。特に僕のような純粋な理想主義者は要注意。(笑)

そして、今の形はあくまでも2011年の時点における途中経過であり、今後このコミュニティがどう進化していくかには、様々な可能性が残されているのだろう。

また、これはすべて僕が2日間の訪問で感じたことであり、実像の10分の1も掴めていないと思う。訪問者は歓迎しているようなので、直接訪れ、自分の目で確認してみるのが一番いい。

アズワンコミュニティ鈴鹿

アズワンカンパニー

サイエンズ研究所

サイエンズスクール鈴鹿

鈴鹿カルチャーステーション

sábado, 29 de outubro de 2011

sábado, 3 de janeiro de 2009

Genética e comportamento social



Com a neurogenética, sabemos que os genes interagem com o ambiente de maneira complexa


A CADA ano fico mais parecido com meu pai. A forma de ajeitar os óculos, as manias e os trejeitos com os quais eu implicava, o mesmo gosto de ver a família reunida à mesa, que me tolhia a liberdade dominical na adolescência. Tudo igual; como se fosse destino. Desde que aprendi a escrever, todos diziam que nossas letras eram semelhantes, observação que me enchia de orgulho, porque eu achava a dele o máximo: inclinada para a direita, cada palavra escrita num único movimento, todas as letras do mesmo tamanho, traçadas com mão firme.

Sempre interpretei a semelhança, como simples imitação do menino alfabetizado em contato com o pai que ele admirava. Anos atrás, no entanto, quando vi pela primeira vez a assinatura do pai dele, meu avô, tomei um choque: a letra era quase igual à minha; as maiúsculas desenhadas com as mesmas curvas.

Você dirá que meu pai foi influenciado pela caligrafia de meu avô, que assim passou para o neto as mesmas características.

Só que meu avô veio da Espanha para o Brasil com 12 anos, sozinho e analfabeto. Nunca foi à escola, aprendeu a escrever por conta própria, e morreu quando meu pai tinha cinco anos. Se não teve oportunidade de influenciar o filho, que dirá o neto.

Chegamos ao ponto, leitor: o velho debate entre os genes e a experiência vivida.

Durante anos, os estudiosos se colocaram em posições antagônicas. De um lado, os defensores do determinismo genético, segundo os quais os genes limitariam nosso comportamento aos desígnios ditados por eles. De outro, os que consideravam o comportamento humano moldado pela somatória das experiências individuais.

A partir dos anos 1990, com a explosão da neurogenética, aprendemos que as influências genéticas existem, são fundamentais, mas que os genes interagem com o ambiente de forma muito mais complexa, mutável e imprevisível do que poderia sonhar nossa vã filosofia de tempos atrás.

Diversas décadas de estudos com irmãos gêmeos idênticos, famílias e crianças adotadas, demonstraram que cerca de metade de nossas características comportamentais encontram-se sob influência direta da genética. No entanto, procurar um gene responsável pela personalidade extrovertida, pela fluência verbal ou pela facilidade para aprender música é tarefa inglória.

Os genes que influenciam o comportamento não agem de forma isolada, como os que codificam a proteína responsável pela cor dos olhos azuis. Eles interagem com uma constelação de outros, localizados nas proximidades ou em áreas distantes dos cromossomos.

Para complicar ainda mais, o impacto do ambiente interfere com a expressão gênica de forma tão decisiva, que um mesmo acontecimento vivido por dois gêmeos idênticos poderá ativar a expressão de determinados genes num deles e silenciá-la no outro.

A convivência social é capaz de induzir alterações gênicas de longa duração, fenômeno descrito em ratos, em 2003.

Ratas que lambem, acariciam e amamentam a ninhada tem filhos que respondem com menos ansiedade ao estresse e repetem com suas crias cuidados semelhantes aos recebidos. Ao contrário, os que foram abandonados por suas mães reagem com mais intensidade ao estresse e cuidam menos dos filhos.

Estudos neurogenéticos realizados com os dois grupos de ratos (malcuidados versus bem-cuidados) mostram que a atenção materna induz alterações moleculares nos genes dos filhotes que codificam receptores cerebrais para glucocorticóides (hormônios envolvidos na resposta ao estresse) e estrógeno (hormônio sexual).

Começam a ser descritas as primeiras modificações duradouras na estrutura molecular dos genes, causadas por influências sociais e estímulos do ambiente. Os efeitos da mesma informação social sobre as funções cerebrais que sofrem influência dos genes envolvidos no comportamento diferem de um indivíduo para outro, como as impressões digitais.

O conhecimento das bases moleculares do comportamento social permitirá entender melhor distúrbios como depressão, autismo, esquizofrenia e muitos outros.

A antiga dicotomia entre os genes e o ambiente é coisa do passado. É tão absurda como ouvir a música e discutir se vem do piano ou do pianista.

As moléculas que constituem nosso DNA não traçam nosso destino, mas sob a influência dos estímulos ambientais sofrem arranjos e rearranjos que explicam a incrível diversidade humana.

sábado, 20 de dezembro de 2008

Estratégia sinistra



Os adolescentes começaram a fumar mais cedo, mulheres aderiram aos cigarros "light"

FINALMENTE, OS fabricantes de "cigarros light" ou com "baixos teores de alcatrão" poderão ser processados por propaganda enganosa. Nos Estados Unidos, prezado leitor, aqui ninguém se atreve a mexer com eles.

O caso foi levado à Suprema Corte americana graças a uma ação movida por três fumantes das assim chamadas versões "light" das marcas Marlboro e Cambridge, que se julgaram prejudicados pela propaganda de que esse tipo de cigarro não faria mal à saúde.

A decisão dos juízes permitirá que qualquer fumante americano processe as grandes companhias.
Os cigarros "light", "ultralight" ou de "baixos teores" foram lançados nos anos 1960, quando não havia mais como negar a relação entre fumo, câncer, doenças cardiovasculares, pulmonares e muitas outras.

A estratégia da indústria foi inventar os cigarros de "baixos teores" e criar a imagem de que seriam seguros. Para o consumidor, a lógica pareceu razoável: se o alcatrão provoca câncer, quanto menos alcatrão mais saudável.

Para completar a trama, adicionaram ao fumo um mundo de compostos químicos destinados a disfarçar o paladar aversivo da nicotina e do alcatrão. O objetivo era um só: viciar as crianças em idade mais precoce e conquistar o público feminino.

Deu certo: os adolescentes começaram a fumar cada vez mais cedo, e milhões de mulheres aderiram às marcas "light".

Essa estratégia sinistra foi apoiada por campanhas publicitárias incessantes pela TV, rádios, jornais, outdoors e revistas, com o objetivo de associar o fumo às práticas esportivas, à saúde e aos anseios de liberdade dos jovens que acabavam de ter acesso à pílula anticoncepcional.
Os países com governantes mais preparados do que os nossos perceberam as dimensões da tragédia social e dos custos da epidemia de fumo para o sistema de saúde e proibiram a propaganda por rádio e TV, a partir dos anos 1970. Nós só o fizemos em 2000, por iniciativa do então ministro da saúde, José Serra.

Quer dizer, assistimos impassíveis ao crime continuado que as companhias internacionais praticaram durante décadas: viciar crianças e adolescentes com uma droga que provoca a dependência química mais avassaladora que a medicina conhece. Você aceitaria, leitor, que quadrilhas internacionais fizessem propaganda pela TV de uma versão "light" de cocaína ou crack?

Admitiria que eles utilizassem as técnicas publicitárias mais avançadas para convencer sua filha de 15 anos que a tal droga melhora a performance esportiva, confere charme às usuárias, além de trazer liberdade sem prejudicar a saúde?

Gostaria que, a peso de ouro, esses crápulas pressionassem sistematicamente os meios de comunicação para impedir a divulgação de qualquer opinião ou estudo que provasse o contrário?
Hoje sabemos que os cigarros de "baixos teores" são muito piores do que os mais fortes. A nicotina age em receptores localizados nos neurônios cerebrais. Quando a droga é excretada, esses receptores ficam vazios e o fumante entra em crise de abstinência. Para aplacá-la é preciso acender o próximo cigarro para que a nicotina caia na circulação sangüínea através dos pulmões e chegue aos neurônios em quantidade suficiente para ocupar todos os receptores disponíveis.

Quem controla a quantidade de nicotina a ser administrada em cada tragada é o cérebro do fumante. Se o cigarro é forte, poucas tragadas fornecem a nicotina necessária. Quando é fraco, elas se tornam mais profundas, demoradas, e o intervalo entre uma e outra encurta. Como conseqüência, a fuligem e os 6.000 compostos químicos resultantes da combustão entram em contato mais íntimo e destruidor com os brônquios e alvéolos pulmonares.

Os fabricantes sabiam disso? Não os menospreze, leitor, estamos falando de grandes organizações criminosas chefiadas por malfeitores profissionais.

Não apenas sabiam, como contrataram especialistas para ludibriar as máquinas em que são feitos os testes de controle das marcas de cigarros.

Em documentação interna datada de 1983, tornada pública por ordem judicial, executivos da British American Tobacco (controladora da Souza Cruz, no Brasil) recomendavam a seus subalternos: "O ideal é que os cigarros de baixos teores não pareçam diferentes dos normais. Eles devem ser capazes de liberar 100% mais nicotina do que o fazem nas máquinas de fumar".

sábado, 6 de dezembro de 2008

Leishmaniose nas cidades



Leishmaniose visceral era considerada em extinção, mas ela retornou e invadiu cidades maiores

HÁ DOENÇAS QUE VÊM , vão embora e, quando menos se espera, voltam com tudo.
É o caso da leishmaniose visceral, enfermidade que provoca febre intermitente com semanas de duração, fraqueza, perda de apetite, emagrecimento, anemia, aumento do baço e do fígado e comprometimento da medula óssea.

É transmitida pelo mosquito-palha ou birigüi (Lutzomyia longipalpis), que, ao picar, introduz na circulação do hospedeiro um protozoário descrito pela primeira vez por Evandro Chagas na década de 1930, a Leishmania chagasi.

Na época do internato no Hospital das Clínicas, acompanhei alguns casos em pacientes invariavelmente oriundos de áreas rurais.

Um deles chamava-se Eisenhower Getúlio da Silva. Tinha dez anos que pareciam seis, magrinho, desnutrido, com um baço que fazia saliência no lado esquerdo do abdômen. De tanto tempo internado, virou mascote da enfermaria.

Uma tarde, já fora de perigo, desapareceu. Procuraram por todo o hospital; até o Juizado de Menores foi chamado. No auge do reboliço, Eisenhower apareceu chupando sorvete, ao lado de um médico-interno que o havia levado para o Zoológico, sem avisar a ninguém.

Na época, leishmaniose visceral era considerada uma parasitose em extinção.

Nos últimos trinta anos, para nossa surpresa, ela não apenas retornou, mas invadiu até cidades maiores. De início, no Nordeste, depois no Norte, Centro-Oeste e Sudeste; só poupou o Sul do país.
Nos últimos 15 anos, já se espalhou por vinte Estados brasileiros, causando mais de 50 mil casos, e quase 2 mil mortes.

E, pior, "bate às portas das cidades de médio e grande porte. Pode chegar a metrópoles como Rio de Janeiro e São Paulo", explica Ricardo Zorzetto em excelente artigo publicado na revista "Pesquisa", da Fapesp, que tomamos a liberdade de resumir na coluna de hoje.

Entrevistado por ele, o sanitarista Carlos Henrique Nery da Costa, da Universidade Federal do Piauí, que estuda a transmissão da leishmaniose em centros urbanos há 20 anos e acompanhou as epidemias ocorridas em Teresina nas décadas de 1980 e de 1990 (mais de mil pessoas acometidas em cada uma), afirmou: "Nos próximos cinco anos pode haver uma epidemia na cidade de São Paulo".

Enquanto a leishmaniose atacava Teresina, surgiam casos em São Luís do Maranhão e Santarém, no Pará. Na segunda metade dos anos 1990, a epidemia chegou a Corumbá, Campo Grande e à divisa do Estado de São Paulo.

Da fronteira, seguindo o curso do rio Tietê, ela avança cerca de 30 quilômetros por ano em direção à capital. Em dez anos, o Centro de Vigilância Epidemiológica registrou mais de 1.200 casos no Estado, e mais de 100 mortes.

O mosquito-palha nunca foi detectado num município da Grande São Paulo. Em 2002, entretanto, em Cotia e no Embu, surgiram casos de leishmaniose cutânea, forma mais branda causadora de feridas na pele, transmitida por outras espécies de Lutzomyia.

Com a destruição das florestas, o inseto transmissor da leishmaniose visceral acabou se adaptando à vida nos centros urbanos. Em Belo Horizonte, invadiu a periferia da cidade; em Bauru, também.

Alguns sanitaristas desconfiam que a disseminação possa ser facilitada pelo plantio de árvores ornamentais nas ruas e parques. As acácias, de flores amarelas, em cachos, são as principais suspeitas: haviam sido plantadas em Teresina na época da primeira epidemia; no Sudão, na década de 1980, entre as 100 mil pessoas que morreram de leishmaniose visceral, a maioria morava em áreas com muitas acácias. O mosquito-palha teria predileção pelo néctar dessas flores.

Nas cidades, a transmissão se torna potencialmente perigosa por causa do grande número de cachorros, que adquirem a infecção e desenvolvem um quadro clínico semelhante ao do homem. Em alguns municípios paulistas a leishmaniose entre cães chega a 20%.


Como o Ministério da Saúde proibiu tratar cães com medicamentos usados em humanos (porque os cães melhoram, mas continuam a transmitir o germe), a alternativa é sacrificar os infectados. Mas a medida não conta com a simpatia dos donos nem dos defensores dos direitos dos animais.
Os médicos precisam estar atentos aos sintomas da leishmaniose visceral, doença que conhecemos mal por julgá-la a caminho da extinção. Sem diagnóstico precoce, a mortalidade pode chegar a 10%.

sábado, 22 de novembro de 2008

A intuição da minha avó



A incapacidade de observar nossa mente nos torna estranhos diante de nós mesmos

SE TIVÉSSEMOS que pensar em cada ato para decidir se valeria a pena executá-lo, passaríamos a vida sem fazer nada.

Por sorte, existem mecanismos adaptativos inconscientes que nos permitem tomar decisões rápidas, enquanto nosso cérebro está entretido no exercício de funções mais nobres.
Parte significativa da mente humana opera em modo automático, fora do alcance da percepção. Sem essa atividade silenciosa, teria sido impossível a sobrevivência de nossos ancestrais, obrigados a tomar decisões rápidas para obter alimentos, defender-se das feras, proteger as crianças e livrar-se de inimigos agressivos.

Como conseqüência desse longo processo evolutivo, tantas vezes encontramos dificuldade para explicar por que agimos daquela maneira. A incapacidade de observar nossa mente enquanto executa suas 1.001 atividades nos torna estranhos diante de nós mesmos.
Na verdade, somos inconscientes de nossa própria inconsciência.

Por isso, quando convidados a explicar nossas reações, quase nunca respondemos: "Não tenho a menor idéia". Ao contrário, vamos atrás de argumentos que façam sentido para justificá-las.
Num estudo publicado em 2005, pesquisadores suecos mostraram fotografias de duas mulheres para um grupo de homens. Cada um devia escolher a que mais o atraía. Num segundo tempo, exibiram novamente as fotos e pediram que eles explicassem a razão da preferência. Para alguns, foi exibida a foto da mulher realmente selecionada; para outros, a da que haviam considerado menos atraente.

Para surpresa geral, apenas um em cada quatro participantes percebeu estar diante da foto errada. Os demais, sem notar a troca, justificaram com argumentos lógicos a razão da escolha. Os pesquisadores não encontraram diferenças significativas entre os motivos apresentados pelos que analisaram a foto certa, e os daqueles que avaliaram a falsa.

A psicologia clássica considera que, em qualquer tomada de decisão, as informações disponíveis seriam processadas numa fase de deliberação, com a finalidade de selecionar a opção mais sensata. Psicólogos da Universidade de Pádua acabam de publicar na revista especializada "Science" um estudo que questiona essa hipótese.

Para avaliar os mecanismos envolvidos nas tomadas de decisão, os autores estudaram as diferenças existentes entre as associações mentais automáticas e os conceitos elaborados de forma consciente diante de um mesmo fato: estar a favor ou contra a controversa ampliação de uma base militar norte-americana na cidade de Vicenza (Itália).

Associações mentais automáticas foram definidas como aquelas que vêm à mente sem haver intenção, difíceis de controlar, e que podem ocorrer sem que tenhamos consciência delas.
Com a ajuda da informática, os autores avaliaram as diferenças entre as atitudes associadas ao automatismo e aquelas tomadas como fruto do pensamento racional, elaborado nos domínios do consciente.

Os resultados revelaram existir divergências entre os indivíduos que a princípio se declararam a favor ou contra a ampliação, e os outros, indecisos.

A aplicação dos testes de associações mentais automáticas entre os indecisos deixou claro ser possível antecipar a decisão que tomariam no final. O indeciso já sabe o que fará, mesmo que se considere conscientemente confuso e incapaz de decidir.

Imagine uma eleição que ocorrerá dentro de dois meses, na qual você não saiba em quem votar: "A" ou "B". Você ficará atento a tudo que for dito e escrito a respeito de cada um. Depois de dois meses de análise crítica você chegará à conclusão de que o candidato "B" merece seu voto.
Você concluirá que a opção foi mediada por mecanismos racionais, conscientes. Errado, dizem os novos estudos. Se você tivesse sido submetido a testes de associação automática dois meses antes, já seria possível prever que seu voto iria para "B".

E o que dizer dos argumentos a favor ou contra cada candidato avaliados com tanto rigor? Só serviram para justificar de forma lógica uma preferência já definida por processos mentais automáticos, dependentes do repertório de suas vivências anteriores. Associações mentais automáticas têm o poder de distorcer as informações novas, de modo que elas se adaptem à escolha já realizada, sem que tenhamos consciência delas.

Não seria isso o que minha avó chamava de intuição?

sábado, 8 de novembro de 2008

Drogas na vagina e fraudes na Saúde



Por que não condenar os parasitas, como é feito com as moças presas nas portas dos presídios?

HÁ ANOS vejo mulheres sendo presas por tráfico de drogas ao visitar maridos e namorados nas cadeias.

Quase sempre são jovens com pouca escolaridade, mães de mais de um filho, moradoras da periferia das cidades, apaixonadas por bandidos que nunca mais se lembrarão delas quando estiverem atrás das grades.

Essas moças geralmente são surpreendidas pelas funcionárias ao passar pela revista, em dia de visita, tentando levar cocaína ou maconha escondida em sacos plásticos introduzidos na vagina.
Encaminhadas à delegacia, são autuadas em flagrante e trancadas. Não voltam mais para casa; os filhos ficarão sob os cuidados sabe lá Deus de quem.

Meses mais tarde, serão condenadas a cumprir penas que podem chegar a quatro ou cinco anos. As novatas entrarão em contato com criminosas de carreira e aprenderão a obedecer a leis impostas pelas quadrilhas que dominam os presídios paulistas; as mais experientes farão pós-graduação no mundo do crime.

Primárias e reincidentes, quando libertadas, estarão na mesma condição: ex-presidiárias sem dinheiro nem emprego, com filhos para acabar de criar e com a folha de antecedentes marcada. Dos anos no cárcere, carregarão as cicatrizes do aprisionamento e as ligações com as parceiras de infortúnio. Voltar a delinqüir é a saída natural.

Sem a pretensão de analisar o rigor das leis contra o tráfico, muito menos a de defender quem as infringe, confesso que no caso dessas moças fico confuso.

Quantos gramas de maconha cabem na vagina de uma mulher? Essa quantidade apreendida é relevante no combate ao tráfico? Será que uma simples medida administrativa, como cassar definitivamente o direito de visitar qualquer presidiário, não seria castigo suficiente para essas contraventoras e não reduziria a superpopulação nas cadeias femininas?

Semana passada, a Operação Parasitas, da Polícia de São Paulo, prendeu cinco acusados de comandar uma quadrilha que fraudou centenas de licitações nos principais hospitais públicos da cidade, além de outros no interior do Estado, em Minas Gerais e no Rio de Janeiro.

O golpe era o de sempre: empresários subornam funcionários públicos para ganhar licitações superfaturadas, realizar vendas de artigos desnecessários e entregar produtos de qualidade inferior à estipulada nos contratos (ou nem entregá-los).

Os policiais encontraram compras efetuadas a preços 400% mais altos do que os encontrados no mercado, cateteres contrabandeados da China vendidos como material de primeira e até fraudes em leilões eletrônicos, com provável participação de pregoeiros e de funcionários dos hospitais.

No período de dois anos, o volume dos negócios teria chegado a R$ 100 milhões. A lavagem do dinheiro era feita em offshores abertas no exterior em nome de pessoas humildes, como sempre.
Por meio de doações a campanhas políticas, os chefes exerciam influência nos municípios em que atuavam. Num deles, chegaram a "comprar" o cargo de secretário da Saúde por R$ 200 mil, doados ao caixa de campanha de um candidato a prefeito nas últimas eleições.

O que mais me chamou a atenção, entretanto, foi o fato de que algumas das empresas investigadas e alguns dos suspeitos estavam envolvidos em outras falcatruas perpetradas contra o sistema de saúde: a máfia dos sanguessugas e as fraudes do antigo PAS da Prefeitura de São Paulo. Outros, ainda, haviam sido investigados pela CPI do Banestado e pela Operação Farol da Colina, da Polícia Federal.

Quer dizer, esses senhores não haviam apenas escapado da cadeia como suas empresas tinham toda liberdade para negociar com hospitais públicos e secretarias de Saúde.

Os escândalos que se repetem em ciclos na área da Saúde desde que me conheço por gente são frutos da impunidade. Quem rouba dinheiro destinado ao tratamento de doentes pobres deveria responder por crime hediondo e cumprir pena em regime fechado, sem nenhuma regalia, naquelas celas de CDP com mais de vinte ladrões.

Não sou ingênuo, leitor, sei que os acusados estarão na rua em uma semana. No Brasil, cadeia foi feita exclusivamente para bandido pobre.

Apesar disso, tomo a liberdade de fazer uma sugestão: por que não condenar esses parasitas, predadores da pior espécie, a quatro ou cinco anos, como é feito com as moças presas nas portas dos presídios?

É pouco, dirá você. Também acho, mas é melhor do que nada.

sábado, 25 de outubro de 2008

Circuncisão e parceria sexual



Além da circuncisão, a redução de parceiros demonstra resultados positivos contra a AIDS

EM MEDICINA , nem sempre o que parece lógico resiste à análise criteriosa dos números. É o caso da transmissão do vírus da AIDS (HIV) nos continentes.

Na maior parte do mundo, a epidemia se espalhou predominantemente entre homens que fazem sexo com homens, mulheres com múltiplos parceiros e entre os usuários de drogas injetáveis e suas parceiras sexuais. Nos países da África situados abaixo do deserto do Saara, entretanto, o HIV se disseminou pela população heterossexual.

Dois em cada três casos de AIDS existentes no mundo ocorrem nessa região. Em nove países do sul do continente mais de 12% dos adultos estão infectados.

Como explicar o caráter devastador da epidemia africana?

Desde a ocorrência dos primeiros casos, as causas têm sido atribuídas à pobreza, à falta de acesso à assistência médica, às guerras, ao analfabetismo e à posição subalterna das mulheres na sociedade. De fato, parece lógico. No entanto, depois de quase 30 anos de acompanhamento da epidemia, as estatísticas contradizem essas suposições.

Análise publicada pelo "Demographic and Health Surveys" sugere que a pobreza não coloca obrigatoriamente as pessoas em situação de risco. Inquéritos realizados em oito países identificaram associação clara entre maior poder aquisitivo e infecção pelo HIV. Por exemplo, no Quênia, a prevalência entre as mulheres mais pobres é de 4%, enquanto atinge 12% entre as mais ricas.

Pesquisas realizadas com casais discordantes (em que apenas um dos parceiros é HIV-positivo) revelaram que em 32% a 64% das vezes a mulher é a parceira infectada, contrariando o clichê da mulher submissa ao marido devasso.

Palcos recentes de guerras fratricidas, genocídios e estupros generalizados, como Angola, Congo e Ruanda, foram menos afetados pela epidemia do que países pacíficos e bem mais ricos, como são os casos de Botsuana e Suazilândia, campeões mundiais em prevalência do HIV.

É importante lembrar que nem todas as áreas da região sub-saariana vivem as agruras da transmissão heterossexual indiscriminada. Nos locais em que a multiplicidade de parceiros sexuais é acontecimento incomum e, especialmente, naqueles em que a circuncisão dos meninos é realizada por imposição religiosa, a epidemia ainda se restringe aos grupos de risco clássicos, com poucos casos em heterossexuais que nunca usaram drogas injetáveis.

Na Nigéria, país muçulmano com um dos mais baixos Índices de Desenvolvimento Humano, em que a circuncisão é universal e o comportamento sexual obedece a normas rígidas, a prevalência do HIV é 0,7%. Em Botsuana, segundo país mais rico abaixo do Saara, em que ambos os sexos referem altos índices de multiplicidade de parceiros sexuais concomitantes, estão infectados 25% dos adultos.

Interpretar os resultados desses estudos é fundamental para definir estratégias futuras de combate à transmissão do vírus, nos países mais atingidos.

Sabemos que intervenções, como testar os doadores de sangue e prevenir a transmissão materno-fetal por meio da administração de antivirais às mulheres grávidas, são de alta eficácia, mas beneficiam uma parcela pequena da população.

Já a circuncisão masculina pode ter grande impacto preventivo. No oeste da África, onde essa prática é comum, a prevalência do HIV continua baixa até hoje. Os três últimos estudos planejados com o objetivo de comparar a prevalência do vírus entre homens submetidos ou não à circuncisão, foram interrompidos por razões éticas quando os resultados iniciais demonstraram que o procedimento reduzia em 60% o risco de contrair o HIV.

Modelos estatísticos sugerem que na África abaixo do Saara, a circuncisão poderia evitar 5,7 milhões de novas infecções e 3 milhões de mortes, nos próximos 20 anos.

Além da circuncisão, programas preventivos destinados a promover a redução do número de parceiros sexuais têm demonstrado resultados muito positivos em Uganda, Quênia, Zimbábue, Costa do Marfim, Etiópia, Malaui e Suazilândia.

Na Suazilândia, depois de uma campanha agressiva com uso dos meios de comunicação de massa, conduzida em 2006, o número de mulheres e homens com dois ou mais parceiros sexuais concomitantes caiu pela metade.

No combate à epidemia heterossexual, a tendência para os próximos anos é a de dar ênfase a duas estratégias: promover a circuncisão e a redução do número de parceiros sexuais.

sábado, 11 de outubro de 2008

Obesidade à americana



Se cortarmos a carne, comerão o quê? Pão, batata frita, massas, refrigerantes e doces

NUNCA VI TANTA GENTE obesa, como na semana passada, no interior dos Estados Unidos. Lá, a epidemia é visível: a maior parte dos transeuntes está acima do peso; não são poucos os que mal conseguem andar por causa da gordura.

Que erros foram cometidos para que essa tragédia social acontecesse justamente no país que mais investe em saúde?

Alimentos a preços acessíveis e o conforto da vida moderna são causas usualmente citadas para explicar por que o Homo sapiens, até ontem caçador-coletor que vivia com fome, sucumbiu às tentações da mesa e ao prazer de passar o dia sentado. Esses argumentos, no entanto, não explicam por que nos Estados Unidos o excesso de peso da população assumiu proporções assustadoras.

É provável que a raiz do problema esteja ligada a um conceito estabelecido nos anos 1950, segundo o qual o consumir carne vermelha elevaria os níveis sangüíneos de colesterol, o que, por sua vez, aumentaria o risco de morte por doença coronariana.

Em 1909, A. Ignatowski alimentou ratos com quantidades excessivas de carne, ovos e leite. Ao sacrificar os animais, encontrou alterações nas artérias, que lembravam as placas de aterosclerose depositadas nas coronárias humanas. Em seguida, foi demonstrado que tais placas continham seis vezes mais colesterol livre do que as paredes das artérias normais.

Em 1913, o russo N. Anitschkow produziu lesões semelhantes em coelhos, alimentando-os com gema de ovo durante dois meses.

Placas de desse tipo jamais foram obtidas em animais carnívoros, detalhe largamente ignorado.
Até 1920, os ataques cardíacos eram responsáveis por menos de 10% das mortes entre os americanos. Perto de 1950, inesperadamente, o número foi para mais de 30%.

Numa conferência realizada em Roma, o americano Ancel Keis perguntou à platéia se a epidemia de doenças cardiovasculares, que se disseminava entre homens de meia-idade, poderia ser explicada por modificações em hábitos alimentares. Um professor da Universidade de Nápoles respondeu que não encontrava tal tipo de morte em sua terra.

Keis viajou a Nápoles, e constatou que ataques cardíacos em pessoas com menos de 60 anos, de fato, eram raros. As únicas exceções ocorriam entre a minoria mais rica que comia carne todos os dias, em contraste com os demais que o faziam uma vez por semana, no máximo. Verificou, ainda, que a média dos níveis de colesterol dos napolitanos era mais baixa do que a dos americanos. A partir desses dados empíricos, concluiu existir uma associação direta entre o consumo de carne gordurosa, os níveis de colesterol e os ataques cardíacos -como o até então obscuro Anitschkow havia proposto.

No leste da Finlândia, em que a população apresentava níveis médios de colesterol da ordem de 260, o número de ataques cardíacos fatais entre 1.000 homens observados durante 10 anos, foi de 70. No Japão, esse número caía para menos de 5.

Keis atribuiu essa diferença ao baixo consumo de gordura na dieta japonesa: 2,5% do total de calorias ingeridas, contra 20% no caso finlandês. Essas idéias provocaram uma avalanche de estudos sobre o papel da gordura na dieta, os níveis de colesterol e a formação de placas nas coronárias. Keis foi capa da "Time", e ficou conhecido como "Senhor Colesterol".

Nenhuma atenção foi dada ao fato de que, na França, o consumo de gordura saturada era três vezes maior do que no Azerbaijão, embora o número de ataques cardíacos fosse mais baixo. Ninguém estranhou o fato de que, apesar de consumirem a mesma quantidade de gordura que os finlandeses, os suíços apresentavam quatro vezes menos infarto do miocárdio.

Em 1984, os National Institutes of Health, dos Estados Unidos, realizaram uma conferência para chegar a um consenso a respeito do tema.

Como resultado, foi lançado um programa para orientar os médicos a controlar os níveis de colesterol de seus pacientes, a aconselhá-los a adotar dietas pobres em carne vermelha e gordura e a substituir manteiga por margarina. A repercussão na mídia foi imediata e retumbante.
Apoiadas em conhecimentos científicos para lá de duvidosos, estavam lançadas as bases para a atual epidemia de obesidade.

Alguma coisa as pessoas precisam comer. Se cortarmos a carne, elas comerão o quê? Cenoura? Alface?

Carboidratos, foi a resposta da população: pão, batata frita, massas, biscoitos, refrigerantes, doces e chocolates. Deu no que deu.

sábado, 27 de setembro de 2008

O esconderijo da gripe


Misteriosamente o vírus vai embora, mas volta no ano seguinte. Em que canto ele se esconde?


G RIPE É EPIDEMIA de temporada. Cada país tem a sua, geralmente no inverno, quando se reúnem as condições ideais para a propagação. Misteriosamente, como chegou, o vírus vai embora. Mas volta no ano seguinte.

Em que canto ele se esconde no intervalo entre duas epidemias?

Persistiria em algumas pessoas assintomáticas, no mesmo local, à espreita do próximo inverno? Fugiria para pequenos povoados da vizinhança, longe do alcance dos serviços de saúde? Ou se esconderia em determinadas regiões do mundo? A resposta a essas velhas indagações acaba de ser publicada na revista "Science".

Dos três tipos de vírus da gripe que circulam atualmente, o que afeta o maior número de pessoas é o influenza A (H3N2), que começou a viajar pelo mundo em 1968. Em média, o influenza infecta de 5% a 10% da população mundial e causa cerca de 500 mil mortes anuais.

O povo confunde gripe com resfriado. De fato, as duas viroses provocam febre, coriza, tosse e dores musculares, mas, no resfriado, os vírus são menos agressivos e os sintomas mais frustros. Tenho uma regra prática para diferenciar uma doença da outra, pergunto: Foi trabalhar? Quando a resposta é afirmativa deve tratar-se de resfriado. Na gripe, o doente cai de cama, não resiste.

A estratégia de sobrevivência dos vírus influenza é engenhosa: eles sofrem mutações constantes que alteram o formato das proteínas da cápsula externa. Com a mudança, os anticorpos fabricados contra as proteínas virais de uma epidemia, serão de pouca serventia para nos defender da que nos atacará no ano seguinte.

Para preparar as vacinas, pesquisadores da Organização Mundial da Saúde (OMS) testam múltiplas amostras do vírus colhidas de pacientes em diversas partes do mundo, para saber quais anticorpos conseguem neutralizá-las. Os resultados são cruciais na preparação da vacina para a nova temporada.


Com os avanços da genética, tem sido possível demonstrar que as mutações sofridas pelo H3N2 ocorrem de forma descontínua. No período de 1968 a 2003, houve fases de relativa estabilidade, seguidas por outras de mutações muito rápidas.

Com o avanço da tecnologia, as análises das características genéticas do H3N2 conduzidas entre 2002 e 2007, puderam mostrar que existe bastante semelhança entre os vírus que se disseminam nas diversas partes do mundo. A homogeneidade sugere que eles surjam em determinada área e se espalhem globalmente, em vez de persistirem em cada local para atacar no ano seguinte (situação em que haveria mais disparidade genética).

Para descobrir em que lugar do mundo os primeiros mutantes emergiriam, pesquisadores da OMS foram atrás dos primeiros casos de gripe diagnosticados em cada país.

A comparação dos genes das diferentes cepas do H3N2 revelou que os primeiros mutantes são detectados nos países do leste e sudeste da Ásia. Cerca de seis a nove meses mais tarde, eles se disseminam pela Europa, Oceania e América do Norte. Outros seis a nove meses são necessários para aparecerem os primeiros casos na América do Sul.

Existem evidências claras de que os vírus mutantes que emergem no leste e sudeste da Ásia sejam descendentes de ancestrais nascidos na mesma região. Quando esses vírus chegam à Europa e às Américas, sua capacidade de sofrer mutações está bastante reduzida.


Antes de se espalharem pelos cinco continentes, os vírus precisariam, então, criar uma rede de transmissão contínua de uma pessoa para outra, no interior dos países asiáticos. Mas, como?

Estudos realizados em países tropicais mostram que as epidemias de gripe costumam ocorrer em épocas de chuvas fortes. Nas quatro regiões tropicais e subtropicais existentes no leste e no sudeste da Ásia, existe grande heterogeneidade de climas. Na época do ano em que faz calor na Tailândia, Coréia ou no Vietnã, é inverno na China e no Japão.

Tal diversidade climática cria as condições ideais para que os vírus circulem e as epidemias se sucedam nos países daquela parte do mundo. Seis a nove meses mais tarde, quando chega o inverno, ele desembarca nos aeroportos dos países da Europa, Oceania e América do Norte que mantêm laços comerciais e turísticos com a Ásia.

Como nosso intercâmbio com os países asiáticos é menos intenso, as epidemias de gripe chegam mais tarde na América do Sul, porque são importadas da Europa e da América do Norte.
Sorte nossa, temos mais tempo para nos vacinar.

sábado, 13 de setembro de 2008

Coração e futebol



Fica nervoso quando as coisas vão mal para o seu time? Na hora do jogo, vá para o cinema

E MOÇÕES FORTES abalam corações sensíveis, reza a sabedoria popular. Expressões como "morri de medo" ou "meu coração saltou pela boca", ilustram essa relação de causa e efeito.

Todos nós já ouvimos relatos de pessoas que caíram fulminadas ao receber uma notícia trágica. Embora a medicina reconheça que o estresse é uma das causas de infarto do miocárdio, arritmia cardíaca e derrame cerebral, o mecanismo envolvido na gênese desses processos é mal conhecido.

Faço essa introdução, para comentar dois trabalhos recém-publicados sobre o tema.

O primeiro foi realizado por cardiologistas norte-americanos, com 19 pessoas que apresentaram sintomas sugestivos de infarto do miocárdio, após viver experiências traumatizantes ou receber notícia da morte inesperada de ente querido.

O segundo foi conduzido por médicos alemães durante a última Copa do Mundo, para verificar se o número de ataques cardíacos na região de Munique aumentava nos dias de jogos da seleção da Alemanha.

No estudo norte-americano, todos os pacientes haviam chegado ao pronto-socorro com dores no peito, falta de ar e alterações circulatórias sugestivas de ataque cardíaco. No entanto, ao avaliá-los por meio de imagens, os cardiologistas não encontraram sinais de obstrução das coronárias.

Os exames laboratoriais mostraram que os níveis sangüíneos de catecolaminas (mediadores com ação semelhante à da adrenalina, liberados durante o estresse) atingiam valores 7 a 34 vezes acima do normal. E, mais importante, eram pelo menos duas a três vezes maiores do que os dos pacientes com obstrução das coronárias, que haviam realmente sofrido infarto.

Tratados apenas com medidas de suporte, todos os doentes tiveram recuperação completa, no período de sete a dez dias.

O mecanismo aventado é de que o estresse mental libere catecolaminas que causam contrações dos ramos mais calibrosos das artérias coronárias -mesmo na ausência de placas obstrutivas de colesterol- provocam espasmo dos ramos mais finos e agridem diretamente as células musculares cardíacas.

Agora, voltemos à Copa da Alemanha, disputada no período de 9 de junho a 9 de julho de 2006.
Os autores consultaram os serviços de emergência da área de Munique e adjacências, para saber quantas pessoas haviam sido atendidas com os seguintes diagnósticos: infarto do miocárdio, angina (dor precordial) de forte intensidade, arritmia ou parada cardíaca.

O número de ocorrências diárias durante a Copa de 2006 foi comparado com as que aconteceram nos mesmos meses de 2003 e de 2005, no mês que antecedeu e no que sucedeu a realização da Copa (períodos-controle). No decorrer da Copa, 4.279 pacientes foram admitidos nos serviços de emergência, com as queixas acima.

Nos dias em que os jogos foram disputados entre equipes estrangeiras, sem a participação alemã, o número de atendimentos dos prontos-socorros foi igual ao ocorrido nos períodos-controle.

Já, nos oito dias em que o time alemão atuou, as internações por emergência cardiovasculares aumentaram em média 2,66 vezes. Provavelmente, como reflexo da preferência masculina pelo futebol, o aumento entre os homens foi mais elevado: 3,26 vezes contra 1,82 nas mulheres.

No primeiro jogo, Alemanha x Costa Rica o número de eventos cardiovasculares duplicou, em relação ao dos períodos-controle. Na partida seguinte, contra a Polônia, em que os alemães marcaram o gol da vitória no último minuto, o efeito foi ainda mais pronunciado: aumento de 2,5 vezes. Na terceira, contra o Equador, com a Alemanha já classificada, o número de atendimentos praticamente retornou ao dos anos anteriores.

Nas partidas que se seguiram, nas quais o perdedor seria sumariamente eliminado, o número de atendimentos nas unidades de emergência cresceu significativamente.

Na quarta de final, contra a Argentina, que terminou com vitória da Alemanha nos pênaltis, os eventos cardiovasculares triplicaram em relação aos períodos-controle. Na semifinal, que terminou com derrota diante da Itália, idem.

Já na partida contra Portugal, em disputa pelo modesto terceiro lugar, os atendimentos voltaram à normalidade, e assim se mantiveram nos meses que se seguiram.

Se os alemães reagem com essa paixão, imagine como será no Brasil? Por isso, leitor, se você tem problemas cardíacos, e fica uma pilha de nervos quando as coisas vão mal para o seu time, aceite um conselho: na hora do jogo, vá para o cinema.

sábado, 30 de agosto de 2008

Fumantes passivos



Se o Brasil adotasse leis como as dos países desenvolvidos, quanto sofrimento evitaríamos?

FUMAR EM espaços fechados é um atentado à saúde de quem está por perto. Permitir que fumantes dispersem partículas tóxicas no ar que outras pessoas respiram é próprio de países que desprezam a vida humana.

Antes que você, leitor, diga que sou moralista e preconceituoso, apresso-me em confessar que fui dependente de nicotina por 19 malfadados anos, durante os quais fumei em ambientes com mulheres grávidas, crianças e senhoras de idade. Se remorso matasse, não estaria aqui este que vos escreve.

A meu favor, posso alegar apenas a ignorância em que éramos mantidos naquele tempo: não sabíamos quanto o cigarro nos prejudicava nem fazíamos idéia dos malefícios causados a terceiros.

Existiam indícios, é fato, mas os fabricantes investiam fortunas em propaganda para desqualificá-los. Essa gente praticou (e continua praticando) o crime mais repugnante da história do capitalismo.

Nos últimos 20 anos, entretanto, as evidências científicas se tornaram tão contundentes que ficou impossível negar o óbvio: fumantes passivos são pessoas que fumam. Logo, estão sujeitas às mesmas doenças que encurtam a vida dos dependentes de nicotina.

Acaba de ser publicado no "The New England Journal of Medicine", a revista médica de maior circulação, um estudo escocês que ilustra o impacto da proibição do cigarro em ambientes fechados.

Em 2005, foi decretado na Escócia o "The Smoking, Health and Social Care Act" (ato para cuidar da saúde de fumantes), que baniu o cigarro de todos os espaços públicos e locais de trabalho, a partir de março de 2006.

Dez meses antes de a lei entrar em vigor, pesquisadores da Universidade de Glasgow passaram a coletar dados sobre o número de pessoas internadas com doença coronária aguda, em nove hospitais, responsáveis pelo atendimento de 63% dos casos existentes no país. Os resultados foram comparados com aqueles obtidos nos dez meses seguintes ao início da proibição.

Por meio de entrevistas, os pacientes foram divididos em três grupos: fumantes, ex-fumantes e não-fumantes. Para confirmar, todos foram submetidos a um exame para determinar a presença de cotinina (um dos metabólicos da nicotina) na circulação.

Nos dez meses que antecederam a vigência da lei, foram internados 3.235 pacientes com quadros coronarianos agudos. Nos dez meses seguintes à proibição, esse número caiu para 2.684. Ou seja, 551 casos a menos; redução de 17%.

Houve queda em todos os grupos: 14% nos fumantes, 19% nos ex-fumantes e 21% nos não-fumantes, a diminuição mais acentuada.

Os autores compararam esses dados com aqueles obtidos na Inglaterra, antes da lei que introduziu proibição semelhante, 17 meses mais tarde (julho de 2007).

No mesmo período em que os escoceses experimentaram os 17% de redução nas internações por doença coronariana aguda, na Inglaterra a queda foi de somente 4%.

Duas semanas depois da vigência da lei, o número de fumantes passivos nos bares escoceses caiu 86%. As concentrações de cotinina na população adulta do país diminuíram 42%, resultado próximo dos 47% obtidos em Nova York, depois da entrada em vigor de lei semelhante.
Embora o estudo escocês tenha sido o mais completo até hoje publicado, está longe de ser a primeira demonstração dos benefícios da proibição do fumo em espaços comuns.

Em 2004, entre os 68 mil habitantes da cidade norte-americana de Helena, o número de internações por infarto do miocárdio diminuiu 40%. Entre os 148 mil habitantes de Pueblo, no Colorado, a queda foi de 15%. Nos 220 mil de Saskatoon, no Canadá, 13%.

Em Roma, cidade com 2,7 milhões de habitantes, o número de casos caiu 8% naqueles com mais de 65 anos, e 11% na população abaixo dessa idade.

Todos os estudos demonstram que legislações restritivas ao fumo em espaços públicos não só reduzem o número de fumantes passivos como fazem cair os níveis de cotinina no sangue dos próprios fumantes.

Embora por ignorância, má-fé ou ganância exista quem se oponha a elas, não há mais dúvida de que leis desse tipo beneficiam indistintamente crianças e adultos, jovens e velhos, quem fuma e quem não o faz.

Se o Brasil adotasse leis como as dos países norte-americanos e europeus, quanto sofrimento nós evitaríamos?

Até quando faremos parte do grupo de países atrasados, que dá ao dependente de nicotina o direito de jogar a fumaça de seu cigarro para dentro dos pulmões dos outros?

sábado, 16 de agosto de 2008

Estratégias alimentares



Membros do primeiro grupo perderam em média 2,9 kg. No segundo, a perda foi de 4,4 kg. No terceiro, 4,7 kg

ESTAMOS EM plena epidemia de obesidade. Contam-se aos milhões as mulheres e homens obesos, até em países pobres. Nos Estados Unidos e Canadá, três em cada quatro habitantes estão acima do peso saudável; no México e no Egito, cerca de 60%; no Brasil, metade da população.

Perder peso é tarefa inglória, porque a medicina tem pouco a oferecer, e porque a evolução selecionou entre nossos ancestrais aqueles dotados de organismos capazes de fazer bom uso de cada caloria ingerida. Quando nos esforçamos para emagrecer, o cérebro faz mil peripécias para que voltemos ao peso original.

Na coluna de hoje, vou resumir um trabalho conduzido em Israel, entre julho de 2005 e junho de 2007. Nesse período, 322 funcionários de um centro de pesquisas (277 homens e 45 mulheres) foram sorteados para adotar uma das três dietas:

1) Pobre em gorduras, com restrição calórica: obediente às normas da Associação Americana de Cardiologia, limitou o consumo diário: 1.500 calorias para as mulheres; 1.800 calorias para os homens. A composição das refeições foi ajustada para que 30% das calorias viessem das gorduras, 10% das gorduras saturadas e o restante de vegetais, frutas, legumes e grãos de baixo conteúdo gorduroso.

2) Mediterrânea, com restrição calórica: rica em vegetais, restringiu a ingestão aos mesmos limites calóricos da anterior (1.500 e 1.800) e substituiu a carne vermelha por frangos e peixes. Permitiu consumir 30 g a 45 g de óleo de oliva e até cinco a sete nozes, amêndoas ou castanhas de caju por dia.

3) Pobre em carboidratos, sem qualquer restrição calórica: baseada na dieta de Atkins, liberou os participantes para comer à vontade, desde que não ingerissem mais de 20 g de carboidratos nos primeiros dois meses; com aumento gradual até o máximo de 120 g, daí em diante.

Para fazer parte da pesquisa, era preciso ter idade entre 40 e 65, índice de massa corpórea (IMC = peso dividido pela altura elevada ao quadrado) igual ou maior do que 27, ou ser portador de diabetes ou de doença coronariana, independentemente da idade e do IMC.

Os participantes tinham em média 52 anos. O IMC médio era 31, valor que cai na faixa da obesidade.

Em Israel, como no Brasil, o almoço é a principal refeição. No refeitório do centro em que todos trabalhavam, cada item servido trazia um rótulo com o número de calorias e a proporção de carboidratos, gordura saturada e não-saturada.

No decorrer do estudo, foram realizados exames de sangue e controles periódicos do peso corpóreo, circunferência abdominal, IMC e pressão arterial.

No final dos dois anos, a aderência disciplinada a cada regime alimentar manteve-se elevada: 90% no primeiro grupo, 85% no segundo e 78% no terceiro.

Houve aumento de atividade física e redução significativa do número de calorias ingeridas nos três grupos, sem maiores diferenças entre eles. A perda de peso máxima aconteceu nos seis primeiros meses (fase de indução). Do sétimo mês em diante, ocorreram pequenos ganhos seguidos de estabilização (fase de manutenção).

Depois de dois anos, os componentes do primeiro grupo perderam em média 2,9 kg. No segundo, a perda foi de 4,4 kg. E, no terceiro, 4,7 kg.

Nos três grupos houve diminuições semelhantes da circunferência abdominal e da pressão arterial. HDL, a fração protetora do colesterol, aumentou mais significativamente no terceiro grupo. LDL, o "mau colesterol", não sofreu variações apreciáveis em nenhum dos grupos.
Entre os 36 diabéticos do estudo, os níveis de açúcar no sangue (glicemia) aumentaram no primeiro grupo e caíram significativamente nos que adotaram a dieta Mediterrânea.

A dieta Atkins modificada apresentou resultados melhores nos controles de colesterol e triglicérides.

Pequenas reduções de peso podem causar impactos metabólicos significantes. Perder 5% da massa corpórea muitas vezes é suficiente para fazer a pressão arterial e a glicemia voltar à faixa da normalidade sem necessidade de medicamentos.

O estudo israelense demonstra que diversas estratégias alimentares podem ser adotadas no combate às complicações da obesidade. Elas devem respeitar preferências e limitações pessoais. Para os diabéticos e aqueles que não se dão bem com alimentos gordurosos, está mais indicada a dieta mediterrânea. Para os que odeiam passar fome, as dietas do tipo Atkins podem representar alternativa razoável.

sábado, 2 de agosto de 2008

Malditos mosquitos



Quase morri por causa de um Haemagogus covarde que me transmitiu febre amarela


TENHO ÓDIO mortal dos mosquitos. Se Charles Darwin tivesse me encarregado de colocar ordem na evolução das espécies, eu teria poupado os dinossauros e varrido os mosquitos da Terra.

Não me faltam razões para tal idiossincrasia: quase morri por causa de um Haemagogus covarde que me transmitiu febre amarela sem deixar vestígio da picada.

É o animal mais perigoso. Se somarmos todos os ataques contra seres humanos já realizados por onças, leões e cobras, obteremos um número insignificante perto dos que caem de cama numa única epidemia de malária ou dengue.

Por essa razão, quando surge uma espécie nova de mosquito em qualquer país, as autoridades sanitárias se assustam.

Foi o que aconteceu num cemitério da cidade norte-americana de Memphis, em 1983, quando o entomologista Paul Reiter capturou um mosquito com estrias brancas no corpo, oriundo das florestas do leste e do sudeste asiático.

Tratava-se de um mosquito tigre (por causa das estrias), cientificamente chamado de Aedes albopictus, parente do Aedes aegipty, o agente transmissor da dengue.

Em 1986, mosquitos tigres foram capturados em São Paulo. Pouco tempo depois, já haviam se espalhado pelo país e chegado ao Paraguaia, à Argentina, à Colômbia e à América Central.

Na Europa, foram detectados pela primeira vez, em 1979, na Albânia, provavelmente importados da China. Hoje, o país mais infestado é a Itália. Identificados no porto de Gênova, em 1990, eles se disseminaram com tanta liberdade, que se tornaram um martírio para os turistas.

Da Itália, migraram para Espanha, França, Croácia, Suíça, Alemanha, e hoje ameaçam Bélgica, Holanda, Irlanda, Inglaterra e a costa da Escandinávia.

Embora na África faltem dados precisos, pelo menos Nigéria, Camarões, Nova Guiné e Gabão foram infestados. A Austrália e a Nova Zelândia também.

É provável que o mosquito tigre tenha viajado pelo mundo no interior de pneus usados que países asiáticos, como o Japão, exportam para outros com legislação menos rígida. E, que, ao desembarcar em terras novas peguem carona em caminhões de carga e automóveis de passeio, para viagens mais curtas.

Três anos atrás, ao atender chamados para combater mosquitos que atacavam jardineiros holandeses em plena luz do dia, os entomologistas identificaram outra rota de penetração em território europeu: o Bambu da Sorte, espécie ornamental importada da China.

Da mesma forma que os ovos do Aedes aegipty, os do albopictus são resistentes à desidratação. Conseguem passar um ano ou mais agarrados às paredes de um pneu seco, mesmo no inverno rigoroso, à espera da próxima chuva para eclodir e dar origem a larvas, que em cerca de uma semana estarão em condições de levantar vôo.

Ao contrário do parente causador de dengue, em que as fêmeas se alimentam exclusivamente de sangue humano, as do mosquito tigre são mais versáteis: podem picar bois, carneiros, ratos, pássaros ou répteis. Por falta de alternativa, no entanto, nas cidades a opção humana pode se tornar a mais viável.

O impacto que a presença ubíqua desse inseto poderá causar na transmissão de doenças humanas provoca debates acalorados. Existem evidências claras de que ele seja capaz de transmitir duas enfermidades com sintomas muito semelhantes: a dengue e a chicungunia, anteriormente só diagnosticada na Ásia.

As epidemias de dengue que ocorrem em locais infestados pelo Aedes aegipty tendem a ser mais graves do que aquelas causadas pelo albopictus, como foi a que atingiu apenas 122 pessoas, no Havaí, em 2001.

Já as de chicungunia são mais agressivas, como demonstram surtos mais recentes ocorridos em ilhas do Oceano Índico. Na ilha de La Réunion, por exemplo, em poucos meses um terço da população foi acometida. Na província italiana de Ravena, 200 pessoas ficaram doentes - uma das quais faleceu.

Estudos laboratoriais mostram que o albopictus pode ser infectado por mais de 20 vírus diferentes. Sua capacidade de transmitir essas viroses aos seres humanos, entretanto, dependerá do número de mosquitos presentes na área, do número de pessoas picadas e da eficiência do vírus para chegar às glândulas salivares do inseto -e delas para a corrente sangüínea do hospedeiro final.

Embora existam divergências científicas sobre o impacto do Aedes albopictus em saúde pública, num ponto todos concordam: ele veio para ficar. E infernizar.

sábado, 19 de julho de 2008

Lei seca no trânsito



Tem cabimento ingerir uma droga que altera os reflexos e sair por aí pilotando uma máquina?


GOSTO DE BEBER, e confesso sem o menor sentimento de culpa. Álcool, de vez em quando, em quantidade pequena, dá prazer sem fazer mal à maioria das pessoas. Aos sábados e domingos, quando estou de folga, tomo uma cachaça antes do almoço, hábito adquirido com os carcereiros da antiga Casa de Detenção. Difícil é escolher a marca, o Brasil produz variedade incrível. Tomo uma, ocasionalmente duas, jamais a terceira. Essa é a vantagem em relação às bebidas adocicadas que você bebe feito refresco, sem se dar conta das conseqüências. Cachaça impõe respeito, o usuário sabe com quem está lidando: exagerou, é vexame na certa.

Cerveja, tomo de vez em quando. O primeiro gole é um bálsamo para o espírito; no calor, depois de um dia de trabalho e horas no trânsito, transporta o cidadão do inferno para o paraíso. O gole seguinte já não é igual, infelizmente. A segunda latinha decepciona, deixa até um resíduo amargo; a terceira encharca.

Uísque e vodca, só tenho em casa para oferecer às visitas.

De vinho eu gosto, mas tomo pouco, porque pesa no estômago. Além disso, meu paladar primitivo não permite reconhecer notas de baunilha ou sabores trufados; não tenho idéia do que seja uma trava sutil de tanino, nem o aroma de cassis pisado, nem o frescor de framboesas do campo. Em meu embotamento olfato-gustativo, faço coro com os que admitem apenas três comentários diante de um copo de vinho: é bom, é ruim, e bebe e não enche o saco.

Feita essa premissa, quero deixar claro ser a favor da chamada lei seca no trânsito.

Sejamos sensatos, leitor, tem cabimento ingerir uma droga que altera os reflexos motores, o equilíbrio e a percepção espacial de objetos em movimento e sair por aí pilotando uma máquina na qual uma pequena desatenção pode trazer conseqüências fúnebres?

Ainda que você não seja ridículo a ponto de afirmar que dirige melhor quando bebe, talvez possa dizer que meia garrafa de vinho, três chopes ou uísques não interferem na sua habilidade ao volante.

Tudo bem: vamos admitir que, no seu caso, seja verdade, que você tenha maior resistência aos efeitos neurológicos e comportamentais do álcool e que seria aprovado em qualquer teste de resposta motora.

Imagino, entretanto, que você tenha idéia da diversidade existente entre os seres humanos. Quantas mulheres e quantos homens cada um de nós conhece para os quais uma dose basta para transtorná-los?

Quantos, depois de duas cervejas, choram, abraçam os companheiros de mesa e fazem declarações de amizade inquebrantável? Está certo permitir que esses, fisiologicamente mais sensíveis à ação do álcool, saiam por aí colocando em perigo a vida alheia?

Como seria a lei, então? Deveria avaliar as aptidões metabólicas e os reflexos de cada um para selecionar quem estaria apto a dirigir alcoolizado? O Detran colocaria um adesivo em cada carro estabelecendo os limites de consumo de álcool para aquele motorista? Ou viria carimbado na carteira de habilitação?

Talvez você possa estar de acordo com a argumentação dos advogados que defendem os interesses dos proprietários de bares e casas noturnas: "A nova lei atenta contra a liberdade individual".

Aí, começo a desconfiar de sua perspicácia. Restrições à liberdade de beber num país que vende a dose de pinga a R$ 0,50? Há escassez de botequins nas cidades brasileiras, por acaso? Existe sociedade mais complacente com o abuso de álcool do que a nossa?

Mas pode ser que você tenha preocupações sociais com a queda de movimento nos bares e com o desemprego no setor.

A julgar por essa lógica, vou mais longe. Como as estatísticas dos hospitais públicos têm demonstrado nos últimos fins de semana, poderá haver desemprego também entre motoristas de ambulâncias, médicos, enfermeiros, fisioterapeutas, agentes funerários, operários que fabricam cadeiras de rodas, sondas urinárias e outros dispositivos para deficientes físicos.

No ano passado, em nosso país, perderam a vida em acidentes de trânsito 17 mil pessoas. Ainda que apenas uma dessas mortes fosse evitada pela proibição de beber e dirigir, haveria justificativa plena para a criação da lei agora posta em prática.

Não é função do Estado proteger o cidadão contra o mal que ele faz a si mesmo. Quer beber até cair na sarjeta? Pode. Quer se jogar pela janela? Quem vai impedir?

Mas é dever inalienável do Estado protegê-lo contra o mal que terceiros possam causar a ele.

sábado, 5 de julho de 2008

Militares na Cabeça do Cachorro



A coluna de hoje é uma homenagem ao trabalho e à presença dos soldados brasileiros na Amazônia

PERFILADOS, OS soldados aguardaram em posição de sentido, sob o sol do meio-dia. Eram homens de estatura mediana, pele bronzeada, olhos amendoados, maçãs do rosto salientes e cabelo espetado. O observador desavisado que lhes analisasse os traços julgaria estar na Ásia.
No microfone, a palavra de ordem do capitão: "Soldado Souza, etnia tucano".

Um rapaz da primeira fila deu um passo adiante, resoluto, com o fuzil no ombro, e iniciou a oração do guerreiro da selva, no idioma natal. No fim, o grito de guerra dos pelotões da fronteira: "Selva!".

O segundo a repetir o texto foi um soldado da etnia desana, seguido de um baniua, um curipaco, um cubeu, um ianomâmi, um tariano e um hupda. Todos repetiram o ritual do passo à frente e da oração nas línguas de seus povos; em comum, apenas o grito final: "Selva!".

Depois, o pelotão inteiro cantou o hino nacional em português, a plenos pulmões.

Ouvir aquela diversidade de indígenas, característica das 22 etnias que habitam o extremo noroeste da Amazônia brasileira há 2.000 anos, cantando nosso hino no meio da floresta, trouxe à flor da pele sentimentos de brasilidade que eu julgava esquecidos.

Para chegar à Cabeça do Cachorro é preciso ir a Manaus, viajar 1.146 quilômetros Rio Negro acima, até avistar São Gabriel da Cachoeira, a maior cidade indígena do país.

De lá, até as fronteiras com a Colômbia e a Venezuela, pelos rios Uaupés, Tiquié, Içana, Cauaburi e uma infinidade de rios menores, só Deus sabe. A duração da viagem depende das chuvas, das corredeiras e da época do ano, porque na bacia do Rio Negro o nível das águas pode subir mais de dez metros entre a vazante e o pico da cheia.

É um Brasil perdido no meio das florestas mais preservadas da Amazônia. Não fosse a presença militar, seria uma região entregue à própria sorte. Ou, pior, à sorte alheia.

O comando dos Pelotões de Fronteira está sediado em São Gabriel. De lá partem as provisões e o apoio logístico para as unidades construídas à beira dos principais rios fronteiriços: Pari-Cachoeira, Iauaretê, Querari, Tunuí-Cachoeira, São Joaquim, Maturacá e Cucuí.

Anteriormente formado por militares de outros Estados, os pelotões hoje recrutam soldados nas comunidades das redondezas. De acordo com o general Francisco Albuquerque, ex-comandante do Exército, essa opção foi feita por razões profissionais: "O soldado do Sul pode ser mais preparado intelectualmente, mas na selva ninguém se iguala ao indígena".

Na entrada dos quartéis, uma placa dá idéia do esforço para construí-los naquele ermo: "Da primeira tábua ao último prego, todo material empregado nessas instalações foi transportado nas asas da FAB".

Os pelotões atraíram as populações indígenas de cada rio à beira do qual foram instalados: por causa da escola para as crianças e porque em suas imediações circula o bem mais raro da região -salário.

Para os militares e suas famílias, os indígenas conseguem vender algum artesanato, trocar farinha e frutas por gêneros de primeira necessidade, produtos de higiene e peças de vestuário. No quartel existe possibilidade de acesso à assistência médica, ao dentista, à internet e aos aviões da FAB, em caso de acidente ou doença grave.

Cada pelotão é chefiado por um tenente com menos de 30 anos, obrigado a exercer o papel de comandante militar, prefeito, juiz de paz, delegado, gestor de assistência médico-odontológica, administrador do programa de inclusão digital e o que mais for necessário assumir nas comunidades das imediações, esquecidas pelas autoridades federais, estaduais e municipais.

Tais serviços, de responsabilidade de ministérios e secretarias locais, são prestados pelas Forças Armadas sem qualquer dotação orçamentária suplementar.

Os quartéis são de um despojamento espartano. As dificuldades de abastecimento, os atrasos dos vôos causados por adversidades climáticas e avarias técnicas e o orçamento minguado das Forças Armadas tornam o dia-a-dia dos que vivem em pleno isolamento um ato de resistência permanente.

Esses militares anônimos, mal pagos, são os únicos responsáveis pela defesa dos limites de uma região conturbada pela proximidade das Farc e pelas rotas do narcotráfico. Não estivessem lá, quem estaria?

Como você deve ter percebido, leitor, a coluna de hoje é uma homenagem ao trabalho e à presença dos soldados brasileiros na Amazônia.